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有馬温泉のはじめ方|1400年の年表を、公式の年号だけで

有馬温泉が知られるようになったのは第34代舒明天皇と第36代孝徳天皇の頃で、日本書紀には舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間、舒明天皇が有馬に滞在したと記されています。その後、承徳元(1097)年の洪水で95年間ほぼ壊滅し、建久2(1191)年に僧・仁西が12の宿坊を営んで再興しました。豊臣秀吉が記録に残る初入湯をしたのは天正11(1583)年、大規模な改修工事は慶長2(1597)年に始まっています。この工事のあと、有馬は350年間ひとつも泉源の改修工事を行っていません。

有馬温泉は「日本最古の温泉のひとつ」と紹介されます。ただ、その言い方だと何も分かりません。公式に書いてある年号と数字だけを、順番に並べます。

始まりは、天皇が86日間いたこと

有馬温泉観光協会は、有馬が知られるようになったきっかけを、2人の天皇の行幸だと説明しています。

そして日本書紀の「舒明記」に、具体的な日付が残っています。舒明3(631)年9月19日から12月13日までの86日間、舒明天皇が摂津の国有馬に滞在した、と。

86日です。立ち寄りではなく、長期の滞在でした。1400年前から、有馬は「行って何日も過ごす場所」だったということになります。

行基が堂を建て、約370年の賑わいが続きました

次に出てくるのが僧・行基です。公式には「聖武天皇(701〜756)の信任あつく、主に池を築き、溝を掘り、橋をかけ、お堂を築くことなどに力を発揮し大きな業績を残した高僧」と説明されています。

そして「行基がここに堂を建立して以来、約370年の間、有馬は相当な賑わいを見せた」と続きます。

★洪水で、95年間ほぼ壊滅しています

有馬の歴史は右肩上がりではありません。公式ページは災害をはっきり書いています。

「温泉寺縁起」によると、堀川天皇の承徳元(1097)年、有馬に洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅した。そして「この大洪水以後95年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したものだと考えられています」。

その後も動乱が続きます。

再興は建久2(1191)年、12の宿坊から

95年の壊滅から有馬を立て直したのが、僧・仁西です。

「温泉の復活とともに、仁西は温泉寺を改修し、12の宿坊を営みました。これは源頼朝が鎌倉幕府を開く1年前、すなわち建久2(1191)年のことと伝えられています」

この12坊の管理は、仁西が吉野から連れてきた河上・余田氏らの平家の残党だった、とされています。いまの有馬の旅館の原型が、この12坊です。

秀吉が大改修をした頃には、12坊は20坊に増えて旅館として機能していました。一の湯に十坊、二の湯に十坊が入るように決められ、各坊に2人の湯女が配属されていた、と書かれています。

★秀吉の改修のあと、350年間そのままでした

有馬の歴史でいちばん大きな出来事が、豊臣秀吉の関与です。日付が細かく残っています。

きっかけは前年の慶長伏見地震でした。建物の被害も大きかったのですが、公式が問題として挙げているのはそこではありません。地震の直後から温泉の温度が急上昇し、熱湯になってしまったことでした。

そして次の一文が効きます。

秀吉の工事以来350年間、有馬町は一度も泉源の改修工事を行っておらずこの時の秀吉の英断がその後の有馬の繁栄に計り知れない影響を与えたことがわかります」

350年、手を入れる必要がなかったということです。

秀吉は、完成した湯に入れませんでした

この話には続きがあります。

地震後に新たに湧いた温泉に湯山御殿を造り、工事が完成した慶長3年の5月に入湯の予定でした。ところが激しい風雨のため中止となり、その後まもなく床に伏し、同年の8月18日に没した秀吉はついにその成果をみることができませんでした、と公式は書いています。

なお、有馬町という地名は明治29年に湯山町から改称されたものです。

有馬で、部屋から出られる風呂を取るなら

有馬は温泉街が狭く、坂が多い場所です。外湯めぐりを前提にすると歩く量が増えます。

アイタヨが監視している範囲では、有馬には客室に露天風呂のある宿が16軒あります。部屋に風呂があれば、坂を上り下りせずに何度でも入れます。

有馬で、坂を上り下りせずに湯に入るなら

有馬には客室に露天風呂のある宿が16軒あります。部屋にあれば何度でも入れます。

いま空いている有馬の客室露天風呂の宿 →

参考・出典

※各施設・スポットのルールは変わることがあります。おでかけ前に公式情報で最新をご確認ください。

最終更新: 2026-08-26